ランニングと海が

海まで走って一休み。帰りも走るつもりが、気が変わってのんびり歩く。そんな日々も気づけばかれこれ30年近く。還暦を過ぎて、定年退職と転職さらには離婚と身辺には大きな変化がありました。新しい仕事にもようやくなじんで来たところです。単身生活にもすっかり慣れて、行動範囲を広げつつあるgayの身辺雑記。

共有の難しさ

誰かと時間や空間を共有することは、非常に濃密なかかわりを持つことに他ならない。

同級生や、過去から現在までいろいろな職場での同僚と、楽しく有意義な付き合いをさせてもらっている。ほぼ毎日のように顔を合わせる人から、大袈裟ではなく20年30年振りに再会を果たして、学生時代よりさらに親しくなって今日に至る旧友まで、本当に恵まれている。
彼らは「素晴らしい人です」「尊敬に値する人物です」と誰に対しても紹介できる存在だ。何気ない日常会話や、真剣な議論を通してお互いに大切な時間と空間を共有して来たし、これからもそうして行けると思っている。

家人との関係は、果たしてどうなのか。「お互いのため」に、離れて暮らすことを決めた今、改めて考えている。同級生や同僚と決定的に違うのは、24時間・365日「共有」しなければいけないという点である。少なくとも私には、それは不可能だった。

性的指向に「大きな秘密」を抱えている上、「一人が好き」というもともとの性分もあって、私はオンとオフの切り替えがはっきりしている。場や状況に合わせて、言動や表情を調整するので自分で思っているよりも「疲れて」いるらしい。それ以外の「方法」を知らないし、世の中のすべての人がそうしていると信じて疑わなかった。人によって程度の差があるとは思っていたが…。

結婚生活は、上記のような感覚や態度、認識が特異なものであると家人から指摘され続けるものであり、当然反論(反撃)の嵐となり、不毛な争いを繰り返した。

ここ数年、私自身の知識が増えたことでやっと承服出来た。私には「発達障害」の部分があって、そうでない人(定型というそうだ)には造作なく出来ることが、難しかったり不可能だったりする。
「空気を読む」ことが好例だろう。幼い頃、学校は嫌な空間だった。それは、言葉が通じないから。意味のわからない奇声や、擬音を口にする特に男児の集団とは一線を画していた。農村の小さな小学校でそういう「生き方」を選んでいた自分に苦笑するばかりだが、それを許してくれていた周囲に感謝するようになれたのは、大人になってからだ。

長くなっているので、ひとまずここで切り上げます。続けてお読み頂けるとありがたいです。
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